J-FUNK STORY

人が刻む本物のリズム
人が奏でる調和に乗った
魂の叫びと祈り
そこには生と死の狭間に
無があった
宇宙の波動があった
MUSIC IS TO LISTEN. NOT TO WATCH.


なぜ、日本の小さなレーベルが、P-FUNKの創始者、アメリカ音楽史のレジェンドであるジョージ・クリントンと契約を結ぶことができたのか。

答えは、40年近く前の、ある一夜にさかのぼる。


1987年、キャピトル東急ホテル

東京・永田町。各国の要人、政治家や海外アーティストが行き交うキャピトル東急ホテルに、史上最年少で起用されたラウンジピアニストがいた。

真野倖富美。20代だった彼女は、その夜、初来日したジョージ・クリントンのマネージャー

アーチ・アイヴィーに導かれ、コンサートの舞台裏に立った。

そこで目にしたのは、4時間を超えるノンストップのP-FUNKだった。

休憩なし。決められた曲順もなし。ただグルーヴだけが、途切れることなく続いていく。マイルス・デイビス、ティナ・ターナー、マイケル・ジャクソン、ジェームス・ブラウン—

—1980年代の来日ラッシュの中で、ブラックミュージックの巨人たちをほとんど生で見てきた彼女が、それでも「あんなものは見たことがなかった」と振り返るステージだった。

音に飲み込まれ、意識が持っていかれる。

終わりのないその響に驚愕し、記憶は色褪せない。

その日から40年近く経った今、彼女の中で生まれた言葉

それは、”宇宙の波動” だった。


鍵盤と、祈りと

福岡で過ごした高校時代、真野が心を奪われたのはFMラジオから流れてくるジャズ、ブルースソウル、R&B、ゴスペル

これまで聞いたことのないアドリブのメロディ・リズム・魂の表現。彼女が惹かれたのは、そういう音楽だった。

進学した筑紫女学園は、仏教系の女子進学校だった。受験一色の校風には馴染めなかったが、修学旅行で訪れた奈良・薬師寺で聴いた説法が、彼女を変えた。以来、仏教委員長として週に二度、全校生の勤行で電子オルガン弾き指揮をとるようになる。

鍵盤の前に座る自分と、手を合わせる自分。その二つは、彼女の中で最初から地続きだった。

高校2年から福岡市中央区」天神のレストランでピアノを弾き始める。これが、プロとして報酬を得た最初の仕事だった。


日本の芸能界と、決別する

20歳で東京へ移住。音楽雑誌キーボードマガジンの募集欄がきっかけで、真田広之のバックバンドのキーボード兼コーラスオーディションに一発で合格する。同時に、千葉真一氏率いるジャパンアクションクラブ(JAC)で、新人俳優たちのボイストレーナーにも僅かに20歳で起用される。教え子ですら年上ばかりの中、演奏・歌唱・教育をかねた、東京での初仕事だった。

順風に見えた。しかし全国ツアーは、名古屋公演の初日を最後に、バンドメンバー全員が会社ごと突然解雇される。後になって、彼女に言い寄ってきた女スパイが内部を操作していたことが分かった。

「二度と、日本の芸能界とは仕事をしない。」

この日の決断が、その後の彼女の進路をすべて決めた。以来、真野が向き合ってきたのは洋楽の中の、ブラックミュージックだけである。ジョージ・クリントンとの契約は、この日から続く一本道の先にある。


ワールドミュージックアカデミー〜育てる側にまわる〜

27歳、ニューヨークへ渡る。バルーク・ニューヨーク市立大学でミュージックビジネスとメディアジャーナリズムを学ぶために、本場のショービジネスを構造から理解しようとした。

だが半年後、母の膵臓がんが判明する。医師が告げた余命は、3ヶ月から半年。真野はすぐに帰国し、抗がん剤に頼らない方法で母の治療に向き合った。結果として、母は13年を生き抜いた。

その看病と並行して、彼女は福岡で音楽教育の道を歩き始める。1993年、ワールドミュージックアカデミー設立。1998年に法人化し、代表取締役プロデューサーを務めた。

ここで彼女が見出し、育てた一人が、のちに国民的シンガーとなるたMISIA である。

ワールドミュージックアカデミーの第1期生で天塩にかけて育てたのであった。

自分が表に立つことよりも、本物の才能を世に送り出すこと。真野のキャリアは、長くそこに軸足があった。

MISIAは、デビューアルバムを300万売上げようとしていた勢いを止めないために、

彼女の所属するプロダクションとレコード会社は、真野へ口止めを要求した。多額な口止め料を要求する駆け引きができないほど、未熟で若かった彼女は言った。

「その代わり、MISIAを、よろしくお願いいたします。」

深々と90度頭を下げ、屈辱と無念の思いを胸に、身を引いたのだった。


失い続けた二十年

しかし、業界の壁は厚かった。

手塩にかけたアーティストを引き抜かれ、大手との契約は不利な形で結ばされ、最後には自分だけが外される。2003年にはバックストリートボーイズやブリトニー・スピアーズを手がけたプロデューサーとスウェーデンでレコーディングを行うなど、真野の企画は、世界水準の現場にも立った。それでも、日本の音楽業界の構造は変わらなかった。母をたった一人残し帰国した先には、母との永遠の別れが待っていた。


涙を見せぬ別れ

涙を見せると、母が安心して、三途の川を渡って成仏できないと、真野は母の鼓動が絶える瞬間まで涙を見せなかった。弟子の前でも葬儀でも、涙を見せなかった。母を看取った後、真野は生と死の狭間の中で、寺で修行を始めた。東長寺で大阿闍梨と毎朝4時からの勤行を半年間、また安国寺専門僧堂での接心にも参禅した。承天禅寺にもかよった。出家も考えたが、母になる道を選び、在家にとどまった。

禅宗の僧侶であり経済学者でもある伴侶とともに、子どもを授かるための治療が始まる。人工授精から体外受精、代理出産から卵子提供まで11年。国境を越えた挑戦も重ねたが、願いは叶わなかった。

信頼していたスタッフの横領が発覚し、赤字に転落して行く途中で、約20年築き上げたアカデミーの閉鎖を決意、2011年1月だった。伴侶の元へと身を寄せた福島にて、20階のタワーマンションで東日本大震災が起こり、被災。倒れてリビングの床に伏せた真野は祈った!

「神様、どうかお許しください。申し訳ございませんでした。私が悪かったです。どうかお許し下さい、申し訳ございませんでいた。お許し下さい。。。」揺れがおさまるまでの2分40秒間、真野は神に謝り続けた。そうしようもない無力な人間の罪を、太刀打ちできない偉大な力に向けて。そして2日後、2度目の原発爆発事故の直後に、国外へ避難した。。

音楽も、家族も、会社も。すべてを失ったように見えた。

愛犬を道連れに避難の旅を続け、四国88ヶ寺お遍路も満行した。それでも彼女は止まらなかった。意を決して4年後の2015年福島に戻り地域創生に取り組む団体を立ち上げ、ブリティッシュコロンビア大学やシカゴ大学で登壇する機会も得た。さらに、被災地の子どもたちのために、金透小学校のオーケストラを東京ライオンズクラブの記念式典の大トリの檜舞台へ送り出した。また東京工業大学でMOT(技術経営)を修めた。

やがて体は限界を迎え、歩くことさえ出来ない寝たきりの時期が7年続く。

それでも、心の奥にはずっと、あの夜のP-FUNKが鳴り続けていた。


「フミ」

ビルボードライブ。真野は、2019年4月30日に、来日していたジョージ・クリントンと再会する。1987年のあの夜から、30年以上の歳月が流れていた。

古い写真を差し出した瞬間、ジョージは言った。

「フミ。」

忘れられてはいなかった。あの夜、舞台裏にいた一人の日本人を、彼は覚えていた。

2023年12月19日、真野は股関節の大手術に踏み切る。「人生120年、還暦で生まれ変わる」という東洋の思想を胸に、これから長く活動を続けるための決断だった。

再び自分の足で歩けるようになったとき、彼女はもう一度、音楽に人生を賭ける覚悟を決めていた。


和太鼓とファンクが出会った夜

2024年9月21日、ブルーノートジャズフェスティバルでの再会をきっかけに、ジョージ・クリントンは真野と、オペレーションディレクターのバリー・エパーソン氏との会談をセッティングする。

場所は東京プリンスホテルの和食レストラン「さくら」。そこで真野が提案したのが、和太鼓とファンクを融合させるというアイデアだった。

ジョージは即座に反応した。J-FUNKは、この一夜で動き出した。


「This is business.」

2025年8月、プロジェクトが動き出す中、真野はジョージのスタジオで、彼の楽曲に合わせてキーボードを弾く機会を得る。第一線を離れて30年以上——それでも指は、自然にファンクを刻んだ。

クラシックで培った88鍵をフルに使うアルペジオ。コードを瞬時に聴き分ける耳。ジョージ本人が、彼女に曲のコードを尋ねる場面もあった。練習中のピアノ演奏が、レコーディングされたこともあった。

現場のスタジオミュージシャンたちの空気が変わった。国籍でも肩書きでもなく、演奏そのものが彼女を証明した。

ジョージは言った。

「This is business.」

一夜の感動ではなく、対等なプロフェッショナル同士の仕事として、この関係は始まった。


300通のメールと、自筆の契約書

それでも、契約への道は平坦ではなかった。

オペレーションディレクターと約200通、ビジネスマネージャーと約100通。合計300通に及ぶ英文メールのやり取り。P Funk全米ツアーの同行と、交渉の途中で、真野の弁護士が手を引くという事態にも見舞われた。

真野は諦めなかった。自ら契約書を書き上げ、直接マネージャーと交渉を重ね、5月14日、正式契約に至った。

この過程で、彼女はバセドウ病を患うほどのストレスを受けている。それでも譲らなかったのは、これが単なるビジネス案件ではなく、1987年のあの夜から続く約束だったからだ。


なぜ、いま日本でファンクなのか

日本の音楽シーンは、長く「見る」ことを中心に発展してきた。ビジュアル、カラオケ、アイドル文化。それ自体は日本が育てた豊かな文化である。

その一方で、目を閉じたまま感動できる音楽に触れる機会は、確実に減った。

AIがあらゆるものを生み出せる時代だからこそ、人間が汗をかき、その場でグルーヴを重ねることに意味がある。そして、目には見えない大きな力——自然、地球、生きものたちへの敬意を、音に込めたい。

「もったいない」「無我」「侍」の精神、精進料理、禅。日本が古くから持っていたこれらの思想は、いま世界で「ミニマリズム」「マインドフルネス」と名を変えて受け入れられている。真野が目指すのは、その逆輸入ではない。日本にもとからあるものを、日本の音として、もう一度世界に届けることだ。

半世紀前、一人の少女を支えた三つの柱があった。
ブラックミュージック。仏教。そして武道。
J-FUNKは、その三本柱から生まれた
日本発、世界に向けた新たな挑戦の音楽である!


ジョージ・クリントンは、日本の音楽業界の中で正当に評価されてこなかった一人のミュージシャンを、対等な仲間として認めた。

その信頼に応えるために、J-FUNKはある。

さあ、私たちと一緒に、J-FUNKを創り、楽しみ、感じましょう。